自分のミッションに「人に寄り添い、夢への一歩を支える」と書いた。
書いたのは僕だ。
それなのに、「寄り添うって、具体的に何をすることですか」と聞かれたら、たぶんすぐには答えられない。
にいみ塾の話をするときも、これからつくりたいフリースクールの話をするときも、僕はこの言葉を使う。
使うたびに、少しだけ後ろめたい。
分かった気になって使っているだけではないか、と思うからだ。
この記事は、答えが出た話ではない。
いま考えている途中のことを、途中のまま書く。
「寄り添う」は、便利すぎる言葉だ
この言葉は、何にでも使える。
教育でも、福祉でも、スポーツでも、ビジネスでも使える。
そして、使った側は良いことを言った気分になれる。
けれど、聞いた側には、具体的に何をしてもらえるのかが分からない。
「あなたに寄り添います」と言われて、それで安心できる人がどれだけいるだろう。
僕が保護者の立場だったら、たぶん「それで、うちの子に何をしてくれるんですか」と思う。
便利な言葉は、考えなくて済む言葉でもある。
だから一度、分解しておきたい。
180人と話していたのに、一人が見えていなかった
高校3年生のとき、僕は約180人のサッカー部でキャプテンをしていた。
当時の僕が大切にしていたのは、自分と違うカテゴリーの練習にも顔を出して、部員全員とコミュニケーションを取ることだった。
トップチームだけを見るキャプテンにはなりたくなかった。
実際、たくさんの部員と話した。
けれど、いま思い返すと、あれは「全員と話した」であって、「一人を分かった」ではなかった。
話しかけた回数は数えられる。
その人がいま何に困っているかは、数えられない。
広く関わることと、深く関わることは、同じ努力ではない。
そのことに気づくのに、僕はずいぶん時間がかかった。
断れないことを、寄り添いだと思っていた
僕には、頼まれごとを断れないところがある。
これは自分でも課題だと思っている。
長いあいだ、僕はこれを短所ではなく、人を大切にしている証拠のように扱っていた。
相手の期待に応える。
相手をがっかりさせない。
それが寄り添うことだと思っていた。
けれど、最近は少し違う気がしている。
断れないのは、相手のためというより、断ったときに自分がどう思われるかが怖いからかもしれない。
だとしたら、あれは相手を見ていたのではなく、自分を見ていたことになる。
もちろん、引き受けたことで実際に助かった人はいると思う。
それでも、「断れない」と「寄り添う」は、分けておきたい。
寄り添うのは相手の側に立つことで、断れないのは自分の側の問題だ。
聞き手の側に立ってみて
僕は「新見康樹の一歩ラジオ」というPodcastをやっている。
アスリート、学生、経営者と、立場の違う人の話を聞いてきた。
やってみて分かったのは、同じ聞き方が誰にでも通用するわけではない、ということだった。
自分では丁寧に聞いているつもりでも、相手にとっては踏み込みすぎていることがある。
逆に、遠慮して聞かなかったことのほうが、相手にとっては話したかったことだった、ということもあるのだと思う。
寄り添い方に決まった型があるなら、僕はとっくに覚えている。
覚えられないのは、相手ごとに違うからだ。
寄り添われる側にいた一年
僕は大学4年生のときにうつ病になり、約1年間療養した。
そのあいだ、僕は完全に寄り添われる側にいた。
回復を支えてくれたものとして、僕は家族、人とのつながり、農作業、薬、時間を挙げている。
薬と医療のことは医療の領域なので、ここでは書かない。
書けるのは、あのとき僕にとっての一歩が、どれくらい小さかったかということだ。
外に出たこと。
農作業を手伝い始めたこと。
いま書くとたった二行だが、当時の僕にとっては、それが一歩だった。
一歩の大きさを決めるのは、支える側ではない。
これは、支えられる側にいたから分かったことだと思う。
それでも、寄り添うだけでは足りない
ここまで書いておいて、反対のことも書く。
寄り添うことだけを目的にすると、たぶんどこかで止まる。
ずっと隣にいるだけでは、その人は動き出さないからだ。
僕のミッションは「人に寄り添う」で終わっていない。
「夢への一歩を支える」まで書いてある。
寄り添うのは目的ではなくて、その人が自分で一歩を決められる状態をつくるための前提なのだと思う。
だから、寄り添いすぎて相手の一歩を先に奪ってしまうことは避けたい。
代わりに歩いてあげることは、支えることではない。
いま僕が言えること
定義を一文で言えるようになったわけではない。
それでも、いま自分がやろうとしていることなら書ける。
これからつくりたいフリースクールでは、定期的に1対1の時間をとる。
ただし、話したくない日は話さなくていいことにする。
対面が難しければ、オンラインでも相談できるようにする。
言葉にするのが難しい子とは、農作業をしながら、言葉が出てくるのを待つ。
そして、僕自身の聴き方について、子どもや保護者から感想をもらう。
最後のひとつが、僕にとっては一番大事だ。
支える側が「自分は寄り添えている」と思い込んだ時点で、それはもう寄り添いではなくなると思うからだ。
僕はまだ、この言葉を使いこなせていない。
使いこなせていないまま、ミッションに書いてしまった。
それでも、書いたからには、意味を持たせ続ける責任があると思っている。
あなたが誰かに寄り添ってもらえたと感じたのは、その人が何をしてくれたときだっただろうか。
何かを言われたときではなく、何も言われなかったときかもしれない。
もしよかったら、教えてほしい。
僕もまだ、その途中だ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
うつ病・精神疾患のご相談を受け付けています
オンライン対応・無料です。経験者としての対話であり、医療行為・専門的カウンセリングではありません。相談の内容や流れ、公的な相談窓口の一覧は下のページにまとめています。
この記事は個人の考えをまとめたものであり、医学的な助言ではありません。心身の不調が続く場合は医療機関にご相談ください。今つらい状態にある方は、#いのちSOS(0120-061-338/24時間)やよりそいホットライン(0120-279-338/24時間)など、専門の窓口にご連絡ください。